ピカピカの1年生!だった頃のワシ。

ベージュのジャケットそしてこのブローチ。母のセンスに脱帽!

 

 

なんでも忘れる酉年生まれのワシではあるが、「言葉を使って考えるようになってしまった」と気付いた瞬間の記憶がある。

 

いま思えば、あれが自我の目覚めだったのかもしれない。

 

先日、湯を沸かす(怒りが込み上げる)体験があった。相手のあることだから詳しく書けないが「え〜!」と思った瞬間、湯の温度は急上昇!

 

沸騰するかと思いきや、ワシの社会的な顔がリーダーシップを握って熱い湯をグッと飲み込んだ。

 

「困った時はお互い様」

「相手の身になって考えよう」

 

これぞ道徳教育の賜物。ワシとて例のご婦人たちをディスる資格などないのである。

しかし、本音をサッと横に置き温和に対処するには、たしかに道徳が役に立った。

実際、先方は困っていた。圧倒的に人に頼らねばならぬシチュエーション。そんな時に誰が怒りをぶつけることができようか。

 

翌日になり日常が戻ってきて気が付く。

湯はまだ熱いままである!

ワシのこころはタイガー魔法瓶なのか!?

 

夫にむかってギャースカ騒いでいたら、

急にわかっちゃった。

「この怒りは相手と何の関係もない」のだと。

 

ことは過ぎ去り、もう目の前には存在していない。

ならば今、ワシは思い出に対して怒っているということか。記憶なんてものは自分に都合よく脚色されるものだ。

 

100%ワシ由来の怒りじゃん?

 

そもそも「ことが起こったその瞬間」でさえ事実をそのまま認識できているとは思えない。何でも「自分との関係性」で解釈してしまうから。

 

親と子、上司と部下、政治家と庶民、親切な私と人でなしのオマエ・・・というように人間関係はもちろんのこと、物質ですらありのままを見ていない。

 

例えば、ワシがPC作業用に使っているこのオレンジのゲーミングチェア。

ワシにとってこの椅子は「自分の所有物」であり、「座り心地が良いお気に入り」で、「自分へのご褒美に奮発して購入」したもの。そうやって一方的に意味付けして関係を結んでいる。

 

ところが我が家に遊びにくる子は「押してくれー、回してくれー」と大はしゃぎ。あやつはこれを乗り物だと思ってるんじゃないだろうか。

心に起こる感情のもとには色眼鏡をかけた解釈がある。でも、だからこそ一人一人が完全オリジナルな体験をしているとも言える。

 

なんともユニークにできていませんか?